ウナイ・エメリ

ジョゼ・モウリーニョ〜通訳からスペシャル・ワンへ〜


父は元ポルトガル代表GKで、自身は選手としては無名の存在だった。体育教師を務める傍、ポルトガルで育成年代の指導に当たっていた。

転機が訪れたのは30歳の時。名門スポルティングの監督に元イングランド代表監督の名将ボビー・ロブソンが就任。

6ヶ国語を話すモウリーニョは知人の紹介により通訳として採用される。ボビーロブソンがバルセロナの監督に就任するとモウリーニョも通訳としてともに移籍。ロブソンは「モウリーニョを通訳として採用する」ことを監督就任の条件にするほど評価していた。

バルセロナの監督にファンハールが就任すると役職は通訳ではなくアシスタントコーチとなる。バルセロナではのちに監督として凌ぎを削ることになるペップ・グアルディオラと選手とアシスタントコーチの関係になった。

ファンハールがオランダ代表監督に就任することが決まるとモウリーニョは自身が監督業をスタートすることを決断する。

ベンフィカで監督に就任するとウニオン・レイリアを経てFCポルトの監督に就任すると、圧倒的な強さでリーグを制し、さらにチャンピオンズリーグ優勝を果たした。

ポルトで評価を確固たるものにするとイングランド・チェルシーの監督に就任。プレミアリーグを制するなど結果を残し、その後インテルでチャンピオンズリーグ制覇やレアル・マドリードでリーグ制覇など数々のタイトルを獲得する。

現在はマンチェスターUやトッテナムなどの監督を経てローマで監督を務めている。

マウリツィオ・サッリ〜銀行員から名将の仲間入り〜


サッリはプロ選手としてのキャリアはなく、40歳まで銀行員として働きながらアマチュアチームなどの下部リーグで指導者としてキャリアを積む。

2000年にサンソヴィーノというアマチュアクラブの監督を引き受けた際に覚悟を決め銀行に辞表を提出し、クラブには「リーグを制覇できなければ、監督業を辞める」と伝え、退路を絶ってシーズンに臨んだ。そして優勝を果たす。

その後イタリアの名将アリゴ・サッキのプレッシングスタイルを取り入れたスタイルでキャリアを切り開き、セリエD、C2、C1、Bの監督を歴任。

そして2012年に就任したエンポリでは1年目にしてセリエA昇格プレーオフ決勝に進出し、敗れたもの脚光を浴びた。そして翌年には安定した戦いを見せ、自動昇格を果たした。

昇格したシーズンは予算が1100万ユーロ(約15億円)と低予算ながら残留を果たすと、その実力が評価され、ナポリに引き抜かれる。ナポリではジョルジーニョらを擁し、絶対的王者ユベントスを最後まで優勝争いを演じた。

その後自身初となる国外挑戦を果たす。チェルシーから届いたオファーを受け入れ、教え子のジョルジーニョとともにロンドンへ。同じイタリア人監督コンテの後任として就任した。リーグは3位で終えたもののELを優勝しタイトル獲得を果たした。

その後退任するもイタリアに戻りユベントスの監督に就任。リーグ優勝を果たしたものの、CLでの成績が振るわず解任となった。

今シーズンからはラツィオの監督に就任し、リーグ戦6位につけている。

ユリアン・ナーゲルスマン〜監督大国ドイツの天才〜


20歳で膝の負傷により選手キャリアを引退し、指導者の道を歩み始めたナーゲルスマン。

引退した当時、アウグスブルグとの選手としての契約が残っていたため、現在チェルシーで監督を務めるトーマス・トゥヘル監督のもとで働くことに。トゥヘルに指導者になることを勧められたナーゲルスマンは、1860ミュンヘンでのU-17アシスタントコーチのオファーを受け、指導者としてのキャリアをスタートさせる。

その後TSG 1899ホッフェンハイムに移るとアシスタントコーチなどを経て、2016年2月11日にトップチームの監督に就任。28歳での監督就任はブンデスリーガ最年少記録となった。

就任時、チームは降格圏の17位だったがチームを立て直し、残留を勝ち取った。翌シーズンはシーズンを通して高パフォーマンスを発揮し、4位でフィニッシュ。クラブ史上初のCL出場権を獲得した。

その後ライプツィヒの監督を経て、今夏からドイツの名門バイエルン・ミュンヘンで指揮を執り、ブンデスリーガとチャンピオンズリーグで印象的な戦いを見せている。

関連記事同一チームで長期政権を務めた監督ランキングトップ5